人々がリアルに集まる場所が唯一の「現場」ではなくなっている。フェイスブックやツイッターまでもが、事象や事件が起こる新たな「現場」となりつつある。
フェイスブックという現場で起きる「物語」は、歴史に刻まれる大事件ばかりではない。米国のジャーナリストに聞いても、その大きな流れが分かる。フェイスブックに、多くの人が個人的な出来事を書き込んでいる。そこに、人の心を打つような物語が少なからずある。
例えばワシントンポストに掲載されたイアン・シャピラ記者の「フェイスブック物語:母の喜びと家族の悲しみ」は、子供を出産した後、妊娠合併症で亡くなった母シャーナの物語だ。シャピラ記者は、家族の承諾を得て、母親が家族や友人とやり取りしたフェイスブックのウォール上の会話を、そのまま転載しながら、新たな生の誕生から母の死まで、そのストーリーを描き出している。
フェイスブックには、妊娠中に、楽しそうに夫とディナーを楽しむ様子や、子供を出産した直後の「子供が生まれてとても元気です」と報告するシャー ナの投稿がある。その後、彼女の元には、友人たちからの「おめでとう!」という祝福が次々と届く。しかし、彼女は出産合併症に冒されてしまい、次第に体調 を崩していった。不眠が続き、集中治療室に入るなど、不安定な状態が続く。そしてシャーナの心臓は、十分に血液を体内に循環させることができないほど弱っ てしまう。
生命力が薄れていくシャーナ。友人は支えになろうと、必死で励ましのメールを書き続ける。だが、ついにシャーナのフェイスブックに、家族からこう書き込まれる。
「息を引き取りました」
記事の最後は、夫からの書き込みで締めくくられている。
「僕の妻を愛している。本当に愛している。100万回でも言うよ。愛している」
シャーナはiPhoneを常に握りしめ、出産にあたって様々な事をフェイスブックにアップしていた。フェイスブックのやりとりからは、彼女が子供 の誕生を心の底から楽しみにしていたこと、子供が生まれた幸福感を味わっていることが、素直な言葉によって綴られている。それだけに彼女が亡くなった後 の、友人や夫からの書き込みは、胸が締め付けられる。
もし彼女が亡くなった後、こうした事実を知って、関係者が取材に応じてくれたとしても、これだけ心を打つストーリーを再現できるだろうか。彼らの 間に取材者として立った瞬間に、空間が微妙に歪む。彼女のウォールで交わされた会話は、気を許す人々が作り出す「場」がなければ生まれてこなかった。